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「天国に向かって門は開かれた」 (*1)

   



2000 / 5 / 31 / 水 / オーチャードホール
N響オーチャード定期 / 第10回


アラン・ギルバート (指揮)
伊藤恵 (ピアノ)
NHK交響楽団

武満徹 / 弦楽のためのレクイエム
シューマン / ピアノ協奏曲 イ短調 op.54
ブラームス / 交響曲 第4番 ホ短調 op.98
(アンコール:バッハ / 管弦楽組曲 第3番
        ニ長調 BWV.1068 〜 アリア)





 この演奏会のプログラム、私はサヴァリッシュ指揮のシューマン

交響曲全曲演奏会の時に知った(もちろん、ニ短調の1841年版の演

奏も含む / 1998年11月)。従って、実に1年半待った演奏会だっ

た。伊藤恵さんの独奏によるシューマンのピアノ協奏曲は、昨年の

12月16日、上野の文化会館で1度聴いた。この時は飯守泰次郎指揮

の東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の演奏会だった。「高

揚し続ける太陽に憧れる1つの眼差し、落ち着き払った扇動家」と

いう印象を持ったことがメモに残っている(第3楽章)。造形的で

力強く、かつ、たいへんに美しい演奏だったことを記憶している。

また、第2楽章ではハープのようにかき鳴らされるピアノが、あた

かも、銀色の音の波を紡ぎ出すようで、月の光を浴びた夜の浜辺の、

鉱物質のひんやりした香気のような印象を持ったことを思い出す。



 さて、今回のN響だが、まず、オーケストラの低弦がよく鳴って

おり、ピアノが何か言うたびに、低い声で返事を返すのが面白かっ

た。この協奏曲はとにかくオーケストラが鳴っていないとおもしろ

くないのだが、その点、ギルバート / N響のコンビはシューマネ

スクな情熱あふれる快演を聴かせてくれたと思う。



 驚いたのはピアノだった。半年前に上野で聴いた演奏とは印象が

まるで違う。いや、言葉に直すとそんなには変わらないのかもしれ

ないが、聴いた印象は全く違うように思えた。まず何よりも「勢い」

が違った。「ほとばしる」という言葉がまさにふさわしいような演

奏だった。この協奏曲は寄せては返す海の波のような、うねりのあ

る曲だと常々思っている。その波のしぶきが跳ね上がり、美しい虹

の模様を空に描き出しているかのような、力強さと壮麗さの双方を

垣間見たように思う。



 第1楽章の主題はベートーヴェンの歌劇「レオノーレ」の「フロ

レスタンのアリア」からの引用だ。政敵の陰謀によって、無実の罪

で投獄されたフロレスタン。ベートーヴェンはこのアリアで天国へ

の憧れ、妻に似た天使への憧れをフロレスタンに歌わせた。もちろ

ん、フロレスタンとはシューマン自身のペンネームの1つだから、

シューマンはベートーヴェンを引用することで、ここに自己を投影

したと言える。シューマンのピアノ協奏曲では、フロレスタンが描

く憧れだけではなく、憧れを抱かずにはいられないほどの、辛酸に

して悲惨なる現実(苦悩であり、苦痛であり、絶望)が渦巻くよう

に立ち現れる。そうした苦痛や絶望が、天国的な幻想(歓喜、恍惚)

とに入り混じり、複雑なシューマネスク模様を繰り広げる。



 第1楽章はベートーヴェンの「フロレスタンのアリア」の「人生

の春の時に / 幸福が私から逃げ去った。In des Lebens Frueh-

lingstagen / Ist das Glueck von mir geflohn! 」の旋律からは

じまる。第2楽章から第3楽章へのブリッジ部分で、「人生の In

das Lebens 」の部分の音型( C,La La )が遠くからこだまするファ

ンファーレのように4回ほどくり返し響いた後(*2)、第3楽章

でシューマンの幻想は一気に天国への高みへと駆け上がる。この楽

章は「フロレスタンのアリア」の後半部分、妻に似た天使が自分を

自由にして天国へと導いてくれる、、、と歌い上げる部分に対応し

ている。もちろん、シューマンにとっての「妻」とはフロレスタン

の妻レオノーレではなく、自身の妻クララ(Clara)のことにほか

ならない。



 苦痛や絶望が天国的な幻想(歓喜、恍惚)と入り混じる、そうい

う複雑なシューマネスク模様を、この日の伊藤さんは劇的に表現し

ていた。甘ったるいメロドラマになりがちな場面においても、絶望

の淵から垣間見た天国の幻影の高貴さを表現していたように思う。

それは、救いと希望だ。伊藤さんの「暁の歌」やブラームスなどか

ら感じた「希望」がここでも立ち現れたように思う。



 演奏会でのたった1度きりの演奏について、言葉で述べるのは困

難だし、これは時には絶望的なほど不可能な事態なのだが、それで

も私は言葉の人間だから、あらゆる事物現象について言葉で語るよ

りない。敢えて言葉にすれば、この夜の伊藤さんは、天国への階段

を一気に駆け上がり、シューマンが一体全体何に対して憧れていた

のかを見せてくれたように思う。しかし、オーケストラがなければ、

この作品の天国性は完成しない。(特に第3楽章のオーボエとホル

ン!) オーケストラとピアノのすべての響きがシューマネスク模

様を織りなして、1つの壮麗華麗なタペストリーを作り上げる。そ

のタペストリーにつけられた名前は、「憧れ、あるいは天国」だ。

おそらく、伊藤さんというピアニストは、このことを魂の次元でよ

く知っているに違いない。あれはそういう人の演奏だと思った。



 シューマンおたく、ばんざい。

 

 (2000.06.02.22:54)



 



(*1) Die Pforte geoeffnet, zum Himmel hinan.

         シューマン / 「楽園とペリ」 op.50 の終曲。

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(*2) 「人生の In das Lebens 」の部分の音型は、「フロレス
タンのアリア」では「C-B-As-As」、シューマンのピアノ協奏曲第
1楽章では「C-H-A-A」だが、B もしくは H を「ブリッジ」ととら
え、A をイタリア音名 La に読み替えることで、この音型が「クラ
ラ Clara」を象徴する( C → La La )と見ることが可能だろう。

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