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「…その境界は判然としない」 (*)


ピアノ協奏曲 イ短調 op.54
 pf. アニー・フィッシャー
 cond. オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団
 rec. 1960 & 1962


 

 ここまで繊細で詩情豊かなこの曲の演奏はなかなか聴けるものではないと思った。光に包まれた春の花々がやわらかに匂ってくるようだ。第2楽章では、ピアニストはあたかもシューマンのおなじみの独奏曲の何かを弾いているかのようで、とても「親密で私的な感じ」なのに、それでいて、オーケストラとしっくり溶け合っている。第3楽章はいささかゆったりめだけれど、満開の桜からはらはらと花びらが散っていくようなイメージを持った。その情景は明るく美しい。けれど、その輝くように美しい時間が、手の届かない彼方へと過ぎ去っていくことを惜しまずにはいられない。二度とめぐり合うことのできない美しいものへの惜別、もしくは出会った瞬間にそれを失うことの痛み。その惜別と痛みそのものもまた美しい。美しさは甘美であり、甘美でありながら痛い。そこで思い出すのが、やはり家持の詠んだ「うらうらに」の情景。気品にあふれるピアノのおかげで、この楽章がどんなに美しいものであるか、改めて感じた……。

(2004.03.07.03:29)




【註】

*…「そのうえ、地辺と周囲の部分とのあいだには輪郭らしいものがあるが、その境界は判然としない。それとまったく逆のことが、月の明るい面にある斑点でおこっている。そこでは、けわしく聳え立つ岸壁にも似て、光と影がするどい対照をなしている。」 (ガリレオ・ガリレイ『星界の報告』、26頁、山田慶児・谷泰訳、岩波文庫、1976)

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