「高揚し続ける太陽に憧れる1つの眼差し」
1999 / 12 / 16 / 木 / 東京文化会館
東京シティ・フィル定期 / 第137回
飯守泰次郎 (指揮)
伊藤恵 (ピアノ)
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
メンデルスゾーン / 序曲「ルイ・ブラス」op.95
シューマン / ピアノ協奏曲 イ短調
op.54
ブラームス / 交響曲 第3番 ヘ長調 op.90 |
開演───。
ピアニストがステージに現われた。サーモンピンクとでもいうよ
うな落ち着いた色合いの、けれど高雅なドレス姿だった。ピアニス
トは椅子に座り、ハンカチを譜面台に置き、後ろに結い上げた髪の
ややほつれたところが気になるのか、右手で右耳の上にわずかに乱
れ出ていた髪をかきあげた。そして、指揮者に軽く合図を送った。
今演奏会のプログラム冊子には「わたしはもう王さまになったよ
うな気持ちがする」というクララの有名な言葉が掲載されていた。
全身全霊を傾けてこれを演奏する人は、「気高い精神の王さま街道」
を歩く幸運を与えられる。そして、それを聴く人間も、同じ道を歩
く幸運を許され得る。
第1楽章───。
激しくも憂鬱な緊張をはらんだ、わずか4小節のピアノの序奏。
暴力的でない、しかし、彫りの深いピアノの打鍵で始まった。
───第3楽章のコーダに至るまでの道程の予感。
序奏が終わるとピアニストは、ややホッとしれたような表情にな
り、オケに合わせて歌いはじめた(これは私には不意打ちだった)。
もちろん、グールドのような歌ではない。声は全く出してはいない。
しかし、客席から見ていても、ピアニストが音楽に合わせて歌って
いるのははっきりわかる。
そうして7小節の休みの後、ピアノが主題を提示した。
(ベートーヴェンの歌劇の、フロレスタンのアリアからの引用の部
分。もちろん「クララ」の音型をソジェット・カヴァート的に用
いていることでも知られている部分。)
オケに合わせて歌っていたピアニストは、自分のピアノに合わせ
ても歌っていた(当然か?)。ということは、このピアニストはオ
ケの歌もピアノの旋律も、何の区別なく、このコンチェルトだから
ということで完全に歌えるようだ。
彫りの深い、陰翳に富んだ演奏だった。緻密でかつ豪快(Fの足
跡が至るところに付着)。まさに「王さまの作品」にふさわしい演
奏だった。瞑想性の奥深さ(そこではEの署名が書かれている)。
その対比の絶妙さ。
一方が光なら、もう一方は影。
一方が希望なら、もう一方は絶望。
一方が激情なら、もう一方は夢みるまどろみ。
一方が革命讃歌なら、もう一方は瞑想する修道士の祈り。
一方が天国への憧れの光輝のまなざしなら、
もう一方は根源的な死への予感を伴う、ほの暗い憂愁。
第2楽章───。
ピアノのアルぺジオはハープのように響いた。ピアノは思ってい
た以上に豪快で鉱物質だったが(しかも荘厳!)、そうした美質が
すばらしく良い方に発揮されていた。
そして、第3楽章!
ピアニストは高揚し続ける太陽に憧れる1つの眼差しだった。こ
の人は、なんと落ち着き払った扇動家かと驚いた。あまりにも強い
高揚感、上昇感。391小節辺りからのオーボエとの掛け合い(これ
はクララとローベルトの対話!)、その歌の丹念なこと、以後、終
結部に向かうまでの演奏は劇的の一言だった。
「この瞬間の音を永遠に永続的に聴いていられたらよいのに。こ
の瞬間が永久に凍結すればよいのに。」と願わずにはいられなかっ
た。死にゆくファウストの熟れた願いのように。
それに、扇動的なホルン!
情熱的な指揮者!
上向きのオーケストラ!
─── 一言で総括してしまえば、すばらしいシューマンだった。
(1999.12.17)
(2000.06.29)
[補足説明 / 謝辞]
この文章は、n'Guinさん の掲示板に私が投稿した投稿記事(後
に n'Guinさん 主宰のサイトに転載していただいたものと同一)が
下敷きになっています。
自分ではあまり気に入っていなかった文章ですが、記録としてと
どめる意味もあると思い(そういう要望もあった)、今回、私自身
のサイトにて公開することにしました。
今回の公開に際しては大幅な改稿を行いました。基本的な部分は
変更していませんが、冗長で説明的な記述、美的でない表現はなる
べく排除したつもりです(しかし、改稿後のものが、冗長でもなく、
また説明的でもなく、さらには美的なものになっているとは必ずし
も言えないのが難点)。本人的には、転載前の文章とは、本質的に
は同じでありながら、違う性質のものになっていると信じます。
今回の私のサイトでの公開にあたり、快く転載のご承諾を下さり、
データをご提供くださいました n'Guinさん のご配慮に厚くお礼を
申し上げます。
(2000.06.30)
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