シューマンの森 < ごく簡単なシューマン論
ごく簡単なシューマン論


Robert Schumann


*** 以下、かなり昔に書いたもの。 ***
 大学のサークル(民族音楽学)の機関誌に掲載するため、発表用レジュメから起こした原稿。

 現在の私の考えとは少し違います。

 現在の考えとは少し違うのですが、基本的な部分はそのままの形で掲載しておきます。
 なお、「付録」は違う文章からの抜粋。こちらも直したいところがたくさんあるのですが、もはや、直せません。 (みなさんの「叩き台」にでもしていただければと…)




前口上 * 本論 *  * 主要参考文献



【付録】  ソジェット・カヴァート (付録1) * 作品解釈への手がかり (付録2)





【 前口上 】

 巷間に流布しているあの「トロイメライ」を書いたピアノ曲の大家、あるいはシューベルトの魂を受け継いだ歌曲(合唱曲)の大家という、親近感あふれる家庭的シューマン像は、一面的で最も手軽な認識に過ぎないと私はかねてから考えている。「トロイメライ」や「流浪の民」のイメージだけからシューマンを評価してはいけない。シューマンには常識的な日常のレヴェルからは簡単に踏み込めないような彼岸的な面があり、それがシューマンの思想を支配していたように見受けられる。シューマンは音楽だけにとどまらず、評論・文学・哲学・神秘思想の世界に深く踏み込んでいた。そのためシューマン芸術はとらえどころがないほどの広がりを持ち、複雑に錯綜していると言える。

 彼の思想は高踏だが支離滅裂だとも言われる。その作品は創作時期によっても、またジャンルによっても多様な表情を持っている。よく知られている歌曲や合唱曲、ピアノ小品以外にも、室内楽・交響曲・協奏曲・ミサ曲・レクイエム・オラトリオ・劇音楽・オペラと、ほとんどのジャンルで1度は作曲が試みられた。特に交響曲と協奏曲は今日でも非常に重要な演奏会レパートリーとして度々取り上げられている。だが、オーケストラ・ファンには広く親しまれているそれらの作品も、一般にはほとんど(全く)知られていない。そうした大きな編成の作品には、有名な小品が持っている親密さ(といわれるもの)とは赴きを異にする近づき難い一面もある。

 シューマンの作曲修行は少年時代に始まった。最初の仕事は、家族コンサートで友達と上演する作品を、手持ちの楽器に合わせて編曲することだった。ギムナジウム(高等学校)やライプツィヒ大学に通っていた頃から作曲活動が本格化した。そこで書かれたのは知人宅のサロン・コンサートで演奏するための歌曲や、自分で演奏するための名人芸的なピアノ小品だった。ライプツィヒ大学(後にハイデルベルク大学に転学)で法学を一応学んではいたものの、ピアニストになるために大学をやめてしまった。しかし本腰を入れてピアニスト修行を始めたところで、指の故障によりピアニストへの道を断念しなくてはならなくなった(*1)。この指の故障(といわれるもの)を契機に、その後、ピアノ小品以外のジャンルへと作曲が拡大されていった。

 作曲の修行はほとんど独学に近かった。それは先人の業績を研究することでもあった。バッハとハイドンの対位法研究、ベートーヴェンとシューベルトの管弦楽法研究、同時代のメンデルスゾーンやショパン、ベルリオーズ、ヴァーグナーの研究などから、多様な器楽作品・管弦楽作品が生まれた。それらはシューマネスクと呼ばれる、独特で複雑な音響的色彩を帯びている。そうした色彩は、少年時代からの文学熱や哲学的思索、音楽的熱狂、生涯に刻印された幸・不幸によって形成され、変容し続けた。

 ウンベルト・エーコ(*2)の小説『フーコーの振り子』では、登場人物たちが、現実と虚構、あるいは常識と狂気といった両極の間を振り子のように絶えず揺れ続ける。そこでは、一歩踏み間違えれば虚構が現実となり、狂気こそが常識となるような、そんな人間の内面の危うさや不気味さが描かれた。振り子が止まる時、こうした両極を隔てていた境界はなくなる。あらゆる意味は読み替えられ、ねじ曲げられ、ついには別の意味を獲得する。それまで常識と現実を支えていた意味の世界はそこに至って崩壊する。

 それはまさにシューマンの姿でもある。シューマンは文学と音楽の間を振り子のように揺れ続けた。やがてシューマンの内面において、両者は一体化し、ついには揃って消滅した。まるでエドガー・アラン・ポーの詩で葬式の鐘の音が余韻を残しつつ消えゆくように。人生最後の2年間、シューマンには音と言葉を外界に表出させる作業が困難となっていた。病状の良い時は作曲もできたし、手紙も書けたが、言語障害の悪化によってやがては言葉も、そしてついには音までも、外へ現れることはなくなった(*3)

 シューマンの沈黙についてはこんな逸話が伝わっている(真偽のほどはともかく)。ブラームスが訪ねた時、シューマンは喜んでこう言った。

   「君が来てくれてよかった。これで2人で黙っていられるね」(*4)

 晩年が近づくにつれ、シューマンの思想も作品も、現実世界の遥か彼方へ遠ざかっていった。見えないものを見ようとし、聞こえないものを聴こうとし続けた生涯の最後には、とうとう霊の世界を確信するようにさえなった。ベートーヴェンの霊から『運命』冒頭の演奏解釈を教わり、シューベルトの霊からは美しい旋律を教えてもらったほどだった(*5)

 当初、シューマンの管弦楽作品は古典的形式とピアノ風の明澄な響きを持っていた。しかし、晩年には形式も響きも、不透明で厚みのある膨張したものへと変質していった(もちろん例外もあるが)。そのため、シューマンの管弦楽曲を積極的に取り上げる若手日本人指揮者にさえ、「中期の管弦楽作品は名作揃いだけれど、晩年の作品は曖昧でとらえどころがない」と言う人もいるほどだ。

 ピアノ小品や歌曲は有名だが、他のジャンルの作品はそれほど知られていない。以前はそれらのCDを探して買うのにも苦労した。あるいは『ゲーテの「ファウスト」からの情景』のように、ベートーヴェンの〈第九〉やマーラーの〈復活〉などと並ぶ超大作、芸術史上稀に見る大傑作でありながら、ごく最近までヴィーンやドイツの評論家にさえ、たいして知られていなかった作品もある。

 私はピアノ曲や歌曲よりも、交響曲や協奏曲といった管弦楽作品に関心がある。特にこの15年ばかりはシューベルトとシューマンの交響曲に 病的関心(?)を抱いてきた。自分がオーケストラ・ファンなので、よく知られている(とも思えないが)ようなピアノ曲や歌曲の大家とは少し違うシューマン像を紹介できたらと考える。シューマンの管弦楽作品はたいていの名曲紹介の本などで割愛され、取り上げられるとしてもごく簡単な、それもつまらない説明だけで終わることが多く、それでいつも憮然とさせられる。偉大な交響曲を書いたベートーヴェンやシューベルトの後継者として、独自の交響曲を目指していたシューマンを紹介できたら、と考える(*6)

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【 本文 】

 シューマンを代表する作品として知られているものの中に『子供の情景』作品15がある。これは13の小曲で構成されている。第7曲の標題「トロイメライ Traeumerei 」は慣用的に夢と訳されている。より辞書的に訳せば夢想だ(夢はトラオム Traum)。夢も夢想もシューマンの内面を解く言葉だ。

 夢や夢想、あるいは幻想という言葉は当時の思潮=ロマン主義運動と深く関係している。暴力的にまとめてしまえば、ロマン主義運動とは人間の内面の自由を芸術によって実現しようという運動だ。旧弊や束縛の多いこの現実世界とは別の自由な世界を精神内部に描くという一種のユートピアニズムだ。そのユートピアニズムは、文学では物語(特に童話)の形で表現された。そうした文学において、夢は「悟性による現実世界の認識を越える別の法則」として利用された(*1)

 ロマン主義の動きは、少年期から親しんだ多くの文学作品を通してシューマンの内面に移入されていった。また、シューマンは歌曲のテキストとしてロマン派詩人の詩を多く採用している。シューマンが影響を受けた文学者としては、ジャン=パウル、E・T・A・ホフマン、バイロン、ゲーテ、シラー、ハイネなどがあげられる(ロマン派ではないがシェイクスピアも重要だ)。ロマン派のティーク、シャミッソーの作品は歌劇や歌曲集のテキストとして採用された(*2)

 シューマンには『ダヴィッド同盟舞曲集』作品6というピアノ曲集がある。1834年に音楽評論のための雑誌音楽新時報を創刊した際、シューマンが作った空想上の団体がダヴィッド同盟だ。シューマンはこの雑誌に執筆する時、3つの筆名(ラロ先生、フロレスタン、オイゼビウス)を駆使し、それぞれの筆名に自分の人格のある部分を担当させて発言させた。フロレスタンとオイゼビウスのように、対照的な性格の人物を対比して描くという着想は、ジャン=パウルの小説『生意気盛り』にヒントを得たものだ。

 『謝肉祭』作品9は22の小曲から構成されている(*3)。日本語では聖書の訳との関係でペリシテ人と訳されているフィリスティン Philistin は、ドイツの学生言葉では俗物を意味している。

 シューマンが言う俗物とは音楽的俗物のことだ。このフィリスティンをダヴィッド同盟が討ちにゆく。だが、なぜダヴィッド同盟なのか? 旧約聖書に出てくる巨人ゴリアテに戦いを挑んだダヴィデの名に因んでいるからだ。ダヴィッド同盟が戦うのは音楽的俗物(フィリスティン)で、シューマンはこれを巨人ゴリアテにたとえた。

 この終曲ではフィリスティンを意味する旋律として17世紀の民謡〈おじいさんの踊り〉が用いられた。この旋律は『蝶々』でも用いられた。(余談だが、この旋律はチャイコフスキーの『くるみ割り人形』第2幕でも用いられた。)

 シューマンにとって重要だった作家はE・T・A・ホフマン、そしてなんといってもジャン=パウル・リヒターだった(*4)。 そのジャン=パウルの小説『生意気盛り』からの抜粋メモに基づいて作曲されたのが『蝶々』だと考えられている(*5)。この小説はヴィーナというマドンナをめぐる双子の兄弟ヴァルトとヴルトの物語だ。ヴァルトは法律を学んだ詩人、ヴルトはフルートを吹く音楽家だ。この双子の姿は、詩人となるか音楽家となるかで迷いながらも法律を学ばざるを得なかったシューマンの姿と重なる。

 シューマンはこの小説の仮面舞踏会の場面をイメージの中心に置いて『蝶々』を作曲した。仮面舞踏会で情熱家ヴルトは夢想家ヴァルトになりすまし、ヴァルトのためにヴィーナに愛をささやく。やがて仮面舞踏会の終わりを告げる深夜の鐘が鳴る。ヴィーナとヴァルトを結びつけたヴルトはフルートを吹きながら去ってゆく。

 ところで、この作品の終曲には小説からの抜粋がつけられていない。シューマン自身も何も語っていない。だが当初、作品の冒頭に『生意気盛り』の最後の部分(「通りから静かにきこえはじめたフルートの響きがやがて遠ざかってゆくのを、ヴァルトは夢中になって聴いていた。弟もまた去りゆくのだということに気がつかなかったのだ」)がモットーとして提示されていたことがわかっている(*6)

 シューマンは終曲でこのモットーを音楽化したとも考えられる。終結部直前で鐘が鳴るのが聴こえる(譜例1)。ヴルトの吹く笛の音が消えてゆく情景は、押さえている鍵盤を1つ1つ放してゆく和音の引き算で表現される(譜例2)。同様の和音の引き算=消えてゆく和音は『アベッグの名による変奏曲』作品1にも見られる。『アベッグ変奏曲』の場合、消えてゆく和音は架空の伯爵令嬢アベッグの綴り(ABEGG=イ・変ロ・ホ・ト・トの各音)を構成している。この消えてゆく和音について、前田昭雄氏は「音響を否定して、『詩』の響きが内へと滲み入る。ドイツ語で Er‐innerung は、『内面化』であってまた『想起』でもあると言うことが、これほど端的に観得される音現象は稀だろう…これは、音詩人シューマンの初期に特有な詩的観念的なタッチである…『ABEGG』は音であって、同時に詩的想念でもある」と述べている(*7)

 シューマンは自分が創刊した新音楽時報という雑誌に、複数の筆名を使って評論を書いていた。特にフロレスタンとオイゼビウスはシューマン自身の性格の両極をそれぞれが担っている。フロレスタンは激情的で挑発的、心の内を激しく表現する闘士で熱血漢だ。オイゼビウスは瞑想的で物静か、情熱を内に秘めた詩人だ。フロレスタンとオイゼビウスは2人ともダヴィッド同盟の一員ということになっている。『ダヴィッド同盟舞曲集』の初版では、各曲にフロレスタンとオイゼビウスの振る舞いが物語風に記されていた…(ア)。 また、それぞれの曲がどちらの人物によって書かれたかを示す署名(フロレスタン Florestan の、オイゼビウス Eusebius の)が末尾あった…(イ)。しかし、第2版では(ア)(イ)ともに削除されている(*8)

 FとEの署名がない作品にも、この2つの性格が一貫して現れるのがシューマン作品の最大の特徴(魅力)であり、弱点でもある。FとEの均衡がとれ、構成上うまく処理されている場合には、限りなくシューマネスクな世界がくり広げられる。しかし、どの作品においてもこの2つの性格が延々と繰り返されるため、時として強迫的な単調さに彩られることさえある(*9)

 この対比が成功している作品の例としては、『アダージオとアレグロ』作品70が挙げられる。アダージオ(=ゆっくりした速度で)がE、アレグロ(=快速に)がFの性格を持っている。なお、作曲者によって指定された楽器編成はホルンとピアノだが、ホルンのかわりにヴァイオリンかチェロを用いてもよいことになっている。指定には入っていないが、木管のオーボエやクラリネットで演奏されることも決して珍しくはない。

 シューマンには完成した交響曲が4つある。そのうち、第3番 変ホ長調が最も最後に書かれた作品だ。第4番の出版に先立つので第3番という番号がふられている。1850年に作曲され、出版はその翌年だ。全体は5楽章で編成されている。通称は『ライン』。(これはシューマンの命名ではない)

 この交響曲の第4楽章はケルン大聖堂で行われた枢機卿叙任式を見たことがきっかけで書かれた。当初、荘厳な儀式を伴奏するようにという指示があった。しかし、この指示は標題的すぎるため、出版時に削除された(*10)。ただ、荘厳な Feierlich という部分だけが残された。バッハ風の書法と荘重な金管の息の長さはブルックナーの響きを先取りしている。この楽章からはチャイコフスキーも影響を受けたと言われる。

 『ライン』の主要な調性は変ホ長調だ。変ホ長調はシューマンが特に好んだ調だ(いずれの作品も明るい色彩を持っている)。変ホ長調で書かれたベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』を意識していたとも考えられる。

 『英雄』は4楽章編成、変ホ長調 → ハ短調 → 変ホ長調 → 変ホ長調。第2楽章の〈葬送行進曲〉のみがハ短調(!)だ。一方、『ライン』の各楽章は変ホ長調 → ハ長調 → 変イ長調 → ハ短調 → 変ホ長調で書かれている。変ホ長調と、その平行調のハ短調で構成されている『英雄』ほどのストレートさはないが、関係の近い調でシンメトリカルにまとめられている(たとえば変イ長調は変ホ長調の下属調、ハ長調はハ短調の同名調というように)。

 『ライン』の第4楽章は『英雄』の「葬送行進曲」と同様、変ホ長調交響曲の中のハ短調楽章だと改めて意識して聴いてみると、そこにベートーヴェンがイメージした英雄の葬列を照らす松明の輝きが見えはしないだろうか。ベートーヴェンという松明からの、深く、荘厳な照り返しが…。

 シューマンは18歳の時に『英雄』を聴いて感激し、「自分もいつかこのような交響曲を書きたい」と思うようになったと伝えられる。22歳の時にはト短調交響曲『ツヴィッカウ』を書きはじめたが、これは未完だ。28歳の時、それまで知られていなかったシューベルトの交響曲を自ら発見して世に送り出した。僚友メンデルスゾーンの初演でこのハ長調交響曲『ザ・グレイト』を聴いたことが直接のきっかけとなって、再度シューマンは交響曲の作曲に取り組むこととなった。未完作ハ短調を経て、30歳の時に4楽章編成の変ロ長調交響曲を書いた。

 交響曲作家としてのベートーヴェンの後継者はブラームスだと広く考えられている。この認識は不適切だ。もちろんブラームスもベートーヴェンの後継者の1人には違いないが、それよりも彼はシューマン直系の後継者だった。ブラームスはシューマンを師ではなく我が主と呼んでいたほど終生尊敬し続けた(*11)

 ドイツ=オーストリア系交響曲の流れは、ハイドン → モーツァルト → ベートーヴェンからブラームスに直結するのではなく、ベートーヴェン → シューベルト → シューマン(とメンデルスゾーン)を経てブラームスに至るのだということを改めて確認する必要があるだろう。  (終)

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主要参考文献







【 前口上 / 註 】


(*1)

 このエピソードはよく知られているが、ことはそんなに単純ではない。この点について、今まで様々な憶測や推測がなされている。そもそも「指の故障」などなかったとする説もある。しかし、シューマンの指(後年は腕全体に広がる)に機能障害があったことは間違いないようだ。
  1. 無理な練習のしすぎによる機能障害。
  2. 梅毒による進行性麻痺。
  3. シューマン が熱中していた当時の民間療法薬の中の水銀による中毒(=水俣病)。
  4. 徴兵忌避のための医者ぐるみの嘘。
  5. 同い年の ショパンや年下の クララ よりピアノが下手だったので、自信を喪失してしまい、人前でピアノが弾けなくなった(一種の書痙のようなもの)
  シューマン の障害については、それが現実にあったか、なかったかということも含めて、以上のような推測がなされている。従来は(a)が通説として広く知られていたが、現在は(b)と(c)の2説が有力となっている。だが、2説ともに問題点が残るため、通説とはなっていない。
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(*2)

 イタリアの著名な記号学者。芸術評論家。小説家。映画化された小説『薔薇の名前』の著者。
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(*3)

 精神病院入院中に書かれた晩年の作品は、シューマンの死後、クララによって破棄された。
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(*4)

 指揮者のフェルディナント・ヒラーがシューマンに言った言葉だという説もある。
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(*5)

 シューマン自身はそう確信していた。霊(精霊、天使などと訳される)から教わった旋律を主題にして変奏曲まで書いている。しかし、実はその旋律はシューマンが自分で作曲し、過去に2度までも、歌曲とヴァイオリン協奏曲に用いたことのあるものだった。
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(*6)

 当時の流行だったハウスムジーク(家庭音楽)的な作品ばかりを作曲していたわけではなく、公共的で大規模で、そして非常に理念的な作品もたくさん遺しているという意味をこめて。
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【 本文 / 註 】
 

(*1)

 大貫敦子「ロマン派の夢」85頁(辻王星・三島憲一『ドイツの言語文化II』放送大学教育振興会、1991、89−95頁)。 (注:辻さんのお名前は正しくは王ヘンに星です。「王星」という2文字からなるお名前ではありません。)
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(*2)

 シューマンとドイツ・ロマン主義運動の関連に興味を持たれた方には以下の文献を紹介する。
  1. マルセル・ブリオン『シューマンとロマン主義時代』喜多尾道冬・須磨一彦訳、国際文化出版社、1984。
  2. 喜多尾道冬「シューマンとロマン主義運動−そのロマンティカーとしての特徴」、「レコード芸術」209−211頁、1994年5月号(第43巻5号)。
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(*3)

 第9曲〈スフィンクス〉は《謝肉祭》形成の上で重要な働きを持つ3音列EsCHA−AsCH−AEsCH(変ホ・ハ・ロ・イ−変イ・ハ・ロ−イ・変ホ・ハ・ロ)が記譜されているだけなので、実際には演奏されないことが多い。従って曲数のうちにも数えない場合がある。前田氏はこれを〈応答〉と併せ、「第8曲」として文献(3)の作品表に掲載している。セルゲイ・ラフマニノフ、ヴァルター・ギーゼキングや内田光子らは〈スフィンクス〉を弾いている。
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(*4)

 元々、裁判官だったホフマンは、自らをアマデウス(=モーツァルトの名前)と命名してしまうほどの音楽狂で、教会楽長・音楽教師・指揮者・作曲家・劇場助監督を歴任した、ロマン派を代表する作家だった。このホフマンの代表的著作が画家ジャック・カロの絵に霊感を得て書かれた『カロ風幻想(画)作品集』だ。この(あ)『幻想作品集 ファンタジーシュテュッケ Fantasiestuecke』と、同じホフマンの(い)作品集『夜景作品集ナハトシュテュッケ Nachtstuecke』の表題は、シューマンの作品の表題として (あ)作品127388111124の5、および (い)作品23にそのまま用いられている。 深田甫訳『ホフマン全集1』創土社、S51(1976)参照。
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(*5)

 『生意気盛り』の原題は《Flegeljahre》で、『腕白時代』とも訳される。《蝶々》と『生意気盛り』の関係については文献(6)に簡潔な解説が記されている。文献(2)がシューマン自身の抜き書き(残念ながら英訳のみで原テキストではない)を示しながら詳細に論じている。
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(*6)

 文献(2)より。
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(*7)

 文献(3)275−278頁。なお前田氏の言う「詩」とは、「言葉による詩」の「背後にあるもの、そこから言葉が詩を汲んでくるような、形象以前の源泉的な存在」のこと(273頁)。
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(*8)

 FとEの名で作曲されたことになっているのは、出版時に削除されたものも含め、以下の作品。すべて38年以前のピアノ独奏曲だ。
  1. 作品9(第5曲と第6曲のそれぞれの表題FとEは残留、作曲者名のFは削除)
  2. 作品11(クララにFとEが献呈、という体裁)
  3. 作品13(削除)
  4. 作品17(削除)
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(*9)

 フロレスタンとオイゼビウスの担った役割や性格について、精神分析医の視点から論じた文献に以下のものがある。
  1. 福島章『天才の精神分析』190−196頁、新曜社、S53(1978)。
  2. 福島章「シューマンの創造と病理」、『音楽と音楽家の精神分析』197−205頁、新曜社、1990。
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(*10)

 シューマンは聴衆のイメージを固定するおそれのあるような言葉を添えて作品を発表することを嫌っていた。誘惑に負けて添えてしまった言葉は、出版や重版の際に考え直されて削除される場合があった。文献(1)のベルリオーズの《幻想交響曲》への評論文中(73−76頁)にそうした考えの一端が示されている。
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(*11)

 ジョゼ・ブリュイール『ブラームス』本田脩訳、白水社、1985、91頁。
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【 主要参考文献 】

* 最も重要なもののみ列挙する。シューマン研究のための基本文献は別頁に提示。




(1) ローベルト・シューマン『音楽と音楽家』吉田秀和訳、岩波文庫、1958。

(2) Lippman, Edward A. ; Theory and Praxis in Schumann's Aeathetics, Journal of American Musicological Society, 17, 1964, pp.310-345.

(3) 前田昭雄『音楽大事典』の「シューマン」の項目、平凡社、1982。

(4) 前田昭雄『シューマニアーナ』春秋社、1983。
 

(5) アラン・ウォーカー『シューマン』横溝亮一訳、東京音楽社、1986。
 

(6) 前田昭雄『新編 世界大音楽全集 器楽編15 シューマン ピアノ曲集I 』 『16−II 』 『38−III 』音楽之友社、1990 / 91 / 93の各「解説」。
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最終更新 2001/03/26 *