ごく簡単なシューマン論 < 付録1 / 付録2

2.作品解釈への手がかり

(昔の文章からの抜粋)


 最後に作品解釈への可能性を示したいと考える。ブラームスの交響曲 第3番ではシューマンの交響曲 第1番および第3番の旋律が用いられている可能性があると述べた。もしシューマンの旋律の「意味」がわかれば、ブラームスの旋律の「意味」もわかる可能性がある。しかし、シューマンの旋律の「意味」は不明であるため、それは言葉としてではなく、音楽としてのみ理解されるだけである。もし、それが何か「意味」のようなものを伴う旋律(言葉を伴う歌など)を利用していれば、その「意味」を求める手がかりが利用した対象(歌など) から得られるかもしれない。

 私が見つけた例は(注 / 私が見つけるより10年以上前にドイツで既に発表されていたらしいことを、後で知った、、、)をシューマンのピアノ協奏曲 第1楽章の主題とベートーヴェンの歌劇「レオノーレ」のアリアの旋律の類似性である(譜例、シューマンのピアノ協奏曲 とベートーヴェン / 79kb)。譜例中、Aはベートーヴェンのアリア、Bはシューマンの主題である。下段のaとbはそれぞれの大まかな旋律線を抽出したものである。ここに殊更、関係性を主張するつもりはない。しかし、両者にはイメージ的な共通性があるとは言えないであろうか。意図せずして、シューマンの内部においてこのような旋律的イメージが形成されていった可能性もある。引用から生まれたのではなく、印象から生まれたとも考えられる。

 シューマンはこの作品をピアノと管弦楽のための幻想曲として作曲した。第2・3楽章は後から付け加えたものであり、まずこの第1楽章が独立した形で作曲された。クララとの結婚の翌年、「交響曲の年」である1841年のことである。後に病気を克服した際に、バッハ研究と共に取り組んだのが第2・3楽章の加筆であった。

 ところで、この第1楽章の主題と類似しているベートーヴェンの歌劇「レオノーレ」のアリアは「フロレスタンのアリア」である。フロレスタンとはこの歌劇の主人公レオノーレの夫である。無実の罪で投獄されたフロレスタンが獄中で歌うのがこのアリアである。フロレスタンは真実を語ったために投獄されたことを嘆きながらも、恥辱を受けて獄中で死ぬことを敢えて受容した。深く絶望しながらも、そのように悟った時、彼の目の前に妻レオノーレに似た天使が現れる。そして、その天使が獄中のフロレスタンを自由にし、天国へ連れてゆくのだ──と歌いあげるのがこのアリアである。 (フロレスタンとはシューマン自身のペンネームでもある。)

 

 シューマンの主題と類似するフロレスタンのアリアの歌詞は以下のようなものである。

 

In des Lebens Frühlingstagen   人生の春の日々に
Ist das Glück von mir geflohn! 幸福が私から逃げ去ったのだ!

 

 ここでシューマンにとって春のイメージが特別なものであったことが思い出される。重苦しい冬の情景を語りながら、その冬の終わりを告げるベトガーの詩からイメージが飛び立ったと考えられる交響曲 第1番(当初「春の交響曲 Frühlingssymphony」と題されていた)の例もある。さらに、ライン河への投身自殺を決行する直前に天使、あるいは精霊(一説にはこれはシューベルトの精霊であったとされる)が教えてくれたと言って書きとめた主題がある。これに関してクララは1854年2月17日金曜の日記に次のように書いている。

 

 床についてまもなくロバートはおきあがって主題を一つ書きつけた。天使が彼に歌ってきかせたという。書きおえるとふたたび横になって、一晩中何かを幻想しつづけている。目を大きく見ひらいて天の方を見上げながら、天使が彼のまわりをとびまわって栄光にみちた音楽を奏してくれているとかたく信じているのであった。もうあと一年もたたぬうちに、われわれ二人も彼ら天使といっしょになるのだ、われわれを迎えにきたのだという。朝になるとともに恐しい変化がおこった。天使の声は悪魔の声に変り、恐しい音楽のなかで、彼は《罪人》だ地獄になげこむといっているという。夜中に彼はときおり私に向って、どうかそばを離れていてくれ、それでないと私を傷[つ]けるかもしれないと懇願する。彼の気持を落着かせるために、数分間立ち去って帰ってみると彼は再び気が静まっているのであった。

[原田,315−316頁]

 

 この天使、あるいは精霊をシューベルトであるとする異伝がどこかで付け加えられたことは興味深い。評論「フランツ・シューベルトのハ長調交響曲 Die C dur = Symphonie von Franz Schubert」において、シューベルトの作品を天国的なるものと類似させていたことを思い出すからである。さらに、この時にシューマンが書きとめた主題の旋律は、これより3か月余り前に完成された「ヴァイオリン協奏曲の緩徐楽章の主題とほとんど変わりがない」[前田 1983, 236頁]。その上、この「天使のテーマ」が、「少年のための歌のアルバム」op.79 の第19曲「春のおとずれ Frühlings Ankunft」(*)に見られるという前田 1983 の指摘がある。前田 1983 はその旋律を歌曲の中に見つけた時の様子を次のように述べている[237頁]。

ちょうどその音にあたる言葉に目がすいよせられた。
「この暗い日々のあとで、野原はなんと明るいことか──」
はっとする。歌の譜を再び一目で追ってゆくと、心には協奏曲の、あのヴァイオリンの音が流れた。

 

 このホフマン・フォン・ファラースレーベンによるドイツ語原詩は、

Nach diesen trüben Tagen,
wie ist so hell das Feld!

である。ところで、この詩は先の「レオノーレ」の中のフロレスタンのアリアの冒頭部分を連想させるには十分ではなかろうか。

In des Lebens Frühlingstagen   人生の春の日々に
Ist das Glück von mir geflohn! 幸福が私から逃げ去ったのだ!

 さらにピアノ協奏曲の第2楽章から第3楽章へのブリッジ部分で、フロレスタンのアリアを喚起する楽句が現れる(譜例のC)。その後に続く、「勝利」に喩えられることすらある第3楽章を、フロレスタンが獄中で見たレオノーレに似た天使であり、フロレスタン=シューマンにとってのレオノーレとはクララのこと、クララに似た天使に導かれて天国に行く理想がこの協奏曲の終楽章の「意味」である──と述べることに無理があるだろうか。

 確かに、そのような「意味」があってもなくても、作品としての価値には変化はない。さらに、たとえ「意味」があるにしても、それと無関係に作品を聴く自由を聴者は持っている。しかし、普遍的で絶対的なものではないにしても、解釈の可能性というものはある。また、聴者にとって、その手がかりとは、様々な旋律をくり返し聴き、発見してゆくこと(前田 1983 のように)で生じる、旋律と「意味」との同一化にあると考えられる。解釈の妥当性を検討するなら、それが何らかの形で実証できることも必要である。しかし、それと同時に、全体としての整合性を持ち、一貫したものであるかという点も検討する必要がある。仮に、何らかの形で部分的に解釈できたとしても、全体の文脈が明らかにされなければ、その部分の意味は多義的なままであり続ける。また、全体の文脈が捉え直された結果、部分の解釈についても変更せざるを得なくなるかもしれない。部分部分のみを明らかにするだけでは満足ではない。全体性を視野に入れた上で、つまり文脈の中にその部分を置いて解釈する必要があると考えられる。


*前田 1982 の作品表では第19曲となっており、前田 1983 の本文では第20曲となっている。

 

(引用文献)

原田光子『真実なる女性 クララ・シューマン』ダヴィッド社, S38(1963)

前田昭雄
 1982 『音楽大事典』平凡社(1982)の「シューマン」の項目
 1983 『シューマニアーナ』春秋社, 1983

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